2004-07-03
ライターズネットワーク湘南 第2回
◆2004年7月2日 於:鎌倉虚子立子記念館
松崎靖弘氏講演録
はじめに
みなさま、ようこそお越しくださいました。この「鎌倉虚子立子記念館」は平成十三年、高浜虚子の孫で俳人の星野椿氏によって開設されたものです。高浜虚子と星野立子のことはご存知ですか? 教科書で知っていらっしゃる方もあるかと思いますが一応ご説明いたします。
高浜虚子(たかはまきょし)
明治七年、愛媛県松山市生まれの俳人・小説家。同郷の正岡子規に師事し明治二十四年、子規より虚子の号を受ける。三十一年、俳句雑誌「ホトトギス」を引き継ぎ、和歌・散文などを加えて総合文芸誌として再出発し、夏目漱石なども寄稿している。
明治四十三年、東京から一家をあげて鎌倉市に移住し、昭和三十四年、八十五歳で永眠するまでの五十年間を鎌倉で過ごした。
星野立子(ほしのたつこ)
明治三十六年、高浜虚子の次女として東京に生まれる。昭和五年長女、椿の出産を機に父の薦めで初の女流主宰俳句雑誌「玉藻」を創刊。虚子没後は中村草田男、加藤楸邨らと共に朝日俳壇の選者となった。
昭和四十五年、脳血栓で倒れ右半身不随、言語障害に悩まされながらもなお、女流の第一人者として歩み続けて昭和五十九年永眠。
虚子立子から星野椿の時代へ
高浜虚子は鎌倉に長く住んだことが知られていますが、立子もその娘の椿も生粋の鎌倉っ子で、虚子によって燈された俳句の伝統を受け継ぎ、俳誌「玉藻」を主宰しました。この記念館には、高浜虚子、星野立子をはじめ近代俳人に関する遺品、資料、千点余りが所蔵されています。
また今年の四月からは鎌倉市などの後援で、鎌倉を散策しながら四季折々を詠んで気楽には俳句ポストに投句してもらう「鎌倉俳句&ハイク」をスタートしています。これの春季(四月一日~四月末)までの投句数は、2102句あまり。広島県や北海道など全国からすばらしい作品がたくさん集まりました。皆さんもせっかく今日虚子立子記念館にいらしたのですから、俳句に親しんでいただき、気軽に俳句をつくってみていただきたいと思います。
高浜虚子の孫であり、星野立子の娘である館長の星野椿氏については以下です。
星野 椿(ほしのつばき)
女流俳人、昭和五年鎌倉生まれ。昭和の代表的な女流俳人だった母、星野立子が創刊した俳句雑誌「玉藻」を昭和五十九年より主宰継承。祖父は高浜虚子。著書に『早椿』『華』『波頭』『雪見酒』他。
そのままを俳句にすればいい
この椿先生は高浜虚子のお孫さんにあたるわけですが、小さい頃俳句が大嫌いだったそうです。終戦後「北海道に行けば、美味しいアイスクリームが食べられる」からと言われ、氷川丸に乗って小樽での俳句会に連れて行かれたのが初めての本格的な俳句との出会い。その時つくったマーガレットの句を虚子が気に入り、「俳句をやりなさい」と言われたのが十六の時だそうです。でもずっと俳句とは無縁で過ごし本格的に手伝うようになったのは、母(星野立子)が病気になってから。病気ながら選句する母を補助し、その評を書いたりと、それが十数年続いて身についたとのこと。その椿先生の息子さん、つまり高浜虚子のひ孫にあたるのが星野高士氏です。ここに高士さんの書いたものがあるので読み上げます。『俳句の魅力は四季の移ろいを感じることですが、なかなか分からない。それで立子に「どうやったらそんな俳句ができるんだ」と聞いたところ、「そのままを俳句にすればいいんだよ」と。そう言われた一言が忘れられません。』
そのままを俳句にすればいい、これはとても深い意味を持っていると私も思います。
中島信也さんというCMプランナーがいますが、彼が俳句について面白いことを言っています。「日清カップヌードル《hungry?》」でカンヌ国際CMフェスティバル・グランプリを受賞した人です。「サントリー・アミノ式」のコマーシャルを見たことありますよね?あれをつくった方ですが、『CMは俳句に似ている。十五秒で、あるイメージを与えなければならないわけですから、あれこれ盛り込もうとすると失敗します。俳句と同じで省略が大切。』
といっています。『早口で言えば十五秒間でかなりのことが言えますけど、言えばいいと言うわけではないし、見る人にいいイメージを残していかなきゃならない。リズムの良くないCMはいけません。』
俳句のリズム・五七五
十七音は、日本語のごく自然なリズムです。俳句をはじめて教わるとき教わることは二つあります。五・七・五の音であることと、季語を入れること。俳句は、難しい理論や何冊もの本を読むよりも、とにかくつくってみること、それが大切です。ただし、ここでいう五・七・五は文字数ではなく、音数のことです。初心者は五音・七音・五音を、まず身につけることです。俳句は、世界でも最も短詩型(五七五の十七音詩)なのです。このことをまず認識するところから、俳句ははじまります。
ここで具体的に例をひいて、俳句の定型のしらべをみてみることにしましょう。
古池や蛙とび込む水の音
この句は、誰でもがよく知っている俳句ですね。俳句を作ったことがない人でも、これくらいは知っているでしょう。江戸時代の有名な松尾芭蕉の作です。
「古池や」五音、「蛙とび込む」七音、「水の音」五音。調子の上でも五音・七音・五音と三つの部分に区切れていますね。はじめの五音を上五(初五)、真ん中の七音を中七、下の五音を下五(座五)といいます。
俳句はこのように区切られていることがまず大切です。ただ漠然と十七音になっていれさえすればいい、そういうものではありません。詩的内容を、この三つの部分に区切って表現していなければいけないのです。つまり、意味上の区切れも、順を追って五音・七音・五音になっていなければ駄目です。三行にわけて書かずに、一行に書いても意味がはっきりと通じ、しかもリズミカルで美しくなければ、俳句とは言えないのです。
こう言うと、はじめての人は、「そんなふうにいわれても、芭蕉のように、うまくできるはずはありません」と言います。でもそんなことはありません。はじめにもいったように、日本語のリズムそれ自体が、俳句を作りやすいような構造になっているのですから、あなたが見たもの、感じたことそのままを、口をついで出てきたように書き留めれば、もう、それが俳句になるのです。
こんな俳句があります。
毎年よ彼岸の入りに寒いのは
「えっ、これが俳句?」
そういう声が聞こえますね。いまの「俳句」ということばをつくった、正岡子規の俳句なのです。子規のお母さんが、
「毎年のことよね。お彼岸の入りがこんなに寒いのはね・・・・・・」
ふと、そういったことばが子規が書きとめて一句にしたのが、この俳句です。俳句は、これでいいのです。誰でもが自分で思っていること、感じたことを、そのまま素直に五音・七音・五音に記せば、それが俳句なのです。こんな句もあります。
青蛙おのれもペンキ塗りたてか
これは『羅生門』や『鼻』などを書いた、小説家・芥川龍之介の俳句です。青蛙のぴかぴかひかっている緑色の肌をみて、
「おや、おまえもペンキぬりたてなのか」と、問いかけているのです。
たったそれだけのことなのに、読み終わった後、クスッと笑いがこみ上げてくるユーモラスな俳句ですね。俳句ではこのおかしさ、滑稽味も大切です。
秋晴の運動会をしてゐるよ
この句は、「北海道横断・車窓」という前書きをつけた、富安風生の俳句です。北海道旅行の列車の窓からみた風景でしょう。窓から、小学校か中学校の校庭で運動会をしているのがみえたのでしょうね。いっしょにいた人か、乗客の誰かが、
「あっ、運動会だ!」
そういったので、空を仰ぐと秋晴れのいい天気です。
これらの俳句をみてください。特別にむずかしいことは、何ひとついっていないでしょう。俳句はこんな所ところから出発すればいいのです。人に訴えてやろう、とか、驚かせてやろう、などと気負ったら、必ず失敗します。初心者は、自分の見たもの感じたことを、五音・七音・五音のリズムにのせて、そのまま十七音にすれば、それが自らの俳句になります。むずかしく考える必要は少しもありません。
「古池や」の俳句を作った芭蕉は弟子たちに、
「俳諧(俳句)は、三尺の童にさせよ」といっています。「三尺の童」とは、ごく小さい子どものことです。世の中のいろいろな経験を積んで、頭で人間のかけひきや理論など覚えてしまった大人より、何も知らない純粋で無垢な子どもの方が、ずっと俳句にあっている、そういう子どもの心で俳句をつくりなさい、と芭蕉は教えてくれているのです。
子どもは嘘をつきません。とりたてて上手くつくろうとも思いません。みたまま、感じたことが、十七音になるのです。このように、子どものような純粋なこころで俳句をつくる、それが大切です。
俳句のすすめ
かつて俳句には、老人文芸とか病者文芸とか呼ばれた時代がありました。人間の才能でもっとも遅く開花するのが、「もののあわれ」的な物を理解する才能だとも言われていますから、俳句などは正にこれに該当します。また、長い人生の中で辛酸をなめつくした結果を生かせる文芸として俳句は格好の物だったから、いつの間にか老人文芸の名を頂戴してしまったのかもしれません。
また、今でこそそう怖い病気ではありませんが、かつては死の病として結核が蔓延していた時代がありました。特効薬がないまま、いつやってくるかわからない死におののきながら、長い療養生活を強いられていた人たちが大勢いました。その人達が心の支えとして選んだのが俳句で、結核病院にはどこにでも俳句を作る集団があって、その中から俳句に残る名作もたくさん生まれました。いし石だは田波きょう郷などは、そうした中の代表作家の一人です、
そのほか、長い間カリエスとの闘病を続けながら、数々の名作を残した野沢節子なども、その代表の一人です。
こうした病者の俳句が、近現代の俳句史の中に大きな足跡を残したことは確かですが、昭和四、五十年代から、俳句の流行が少しずつ変化が表れ始めています。
その一つが、女性の俳句への進出です。俳句は長い間、「おとこ歌」として存在してきました。俳句にある数々の制約を集約してみますと、「いかに言うか」より、「いかに言わないか」を心掛ける文芸ですから、そう言われたのかしれません。むしろ、多くが叙述ができる短歌の方が女性に向いている文芸と思われていました。
ところが、昭和四、五十年になって、全国にカルチャーセンターが雨後の竹の子のようにでき始め、そこにたくさんの俳句教室が誕生しました。カルチャーセンタの実態については後段で詳述しますが、ここで育った女性が、後の俳句界に大勢参入してきます。
知的で、おしゃれで、老後を軽く見渡すこの女性群の出現で、それまでの「おとこ歌」の領域に、男性では読めなかった領域が加わり始めました。
どこの俳句結社にも女性が増え、主宰が女性の結社では、会員が八、九割が女性というところもありました。
この女性の進出に、もう一つ新しいページが加わりました。一世を風靡した短歌の俵万智に後れて、俳句の世界にも黛まどかという新しい星が現れました。ミス浴衣にも選ばれた美人の彼女を中心に「東京ヘップバーン」なる会ができ、俳句を新仮名遣いでかき、それまで禁じられてきた俳句の横書きも堂々とし始めました。彼女ら若い女性が俳句会に入ってくることで、俳句がファッション化した、と言うこともできます。
ところで、女性陣に取り残された男性はどうなのかも気になるところですが、こちらにも様変わりが見え始めています。
老人文芸と言われた時代の男性のほとんどが、勤めをリタイアしてから、この道に入ってきました。リタイアしてから入っても、その先に十年、三十年という人生の長い道のりを考えると、この時期から始めることで十分でした。
ところが、最近の一つの傾向は。リタイア前の五十歳代で俳句に手を染める男性が増えてきたことです。日本経済の成長期を支えてきたこの年代の男性はまた、自らの人生設計の中に、年金を計画的に配分するように俳句の学習を始めます。
従って、どの師につくことが効率的で、何年たてばどの程度のレベルに達しているかを自ら設計します。しかし、そうはいっても思い通りに行かないのが俳句の世界で、挫折を重ねながら、やっと実社会でははかれなかった俳句の魅力に逢着します。
もう一つの男性のパターンは、三、四十歳代から俳句の道に入ってくる人たちです。この人達は、前者の定年予備軍とは違って、俳句を自らを見極める手段ととらえ、先のことではなくて、今の今をどう生きるかを考えながら俳句に入ってきます。そのせいか、この層の男性が一番熱心と言うこともできます。
俳句がお茶やお花の芸事と明らかに違うところは、これらが修練の結果、型の深奥を極めるのと違って、芸の修練ももちろん行いますが、その先は、俳句という方法を通して、自分自身の人生を見極めることのできるところです。
これまでは、年齢、性別の限られた人たちが展いてきた世界でしたが、俳句のいろんな人たちが参画し、裾野が広がることで、俳句にまた新しい世界がどんどん開拓されることでしょう。人間おのおのが引っさげた人生の重さが、そのパターンが増えれば増えるほど、俳句に国民文芸としての普遍性も生まれてきます。
そんな転換期を、いま俳句は迎えているのかもしれません。
句会の催し方
1)受付 参加費を払って、投句用短冊,清記用紙、選句用紙などをもらう。
2)投句 締切時間までに、短冊に自分で作った句を書いて、所定のところに投句する。
投句する数は、句会によって、予め定められている。
題は、自由な場合もあれば、事前に決まっている場合もある。
3)清記 幹事が、みんなの投句短冊を、よくかきまぜて、それを各人に同数配布するから、
各人は自分に配られた短冊の俳句を、清記用紙に清書する。
4)選句 清書された句のなかから、自分で良いと思った句を選んで、選句用紙に記入する。
5)披講 各人の選句が終わったら、披講者が、全員の選句を順次読み上げる。
自分の句が読み上げられたら、名乗りをあげる。
6)締め 先生の講評、成績発表なども行われる。
2004年7月2日 句会もどき 松崎靖弘先生 講評
虫よけのスプレー持って俳句詠み 竹中恭子
虫除けはとにかく、俳句詠み、はそのまますぎるので、「虫よけのスプレー持って詠む俳句」ではどうでしょうか?
うぐいすに呼びかけられし藪小径 村上節子
言うことなしの素晴らしい俳句です。すんなりと読めて、とても俳句らしい俳句といえるのではないでしょうか。
週末に涼を求めて逗子の海 重田弘美
これも素直でよい俳句です。
ボサノバの甘き気だるさ夏の午後 木下光代
洒落ています。とてもいいと思います。
愚痴などはとうに忘れてかき氷 木下光代
これも素晴らしい。
笑ふほど猫のびきって夏座敷 木下光代
これもくすっと笑えるところがいいと思います、夏座敷というのもいい。
仏心のありや御堂の花菖蒲(はなあやめ) 村上節子
この花菖蒲(はなあやめ)は、はなしょうぶでいいのではないでしょうか。
見て見てと夏庭に並ぶ句碑の森 竹中恭子
後半が苦しい感じがします。そういう時は上語と下語を逆にしてみる。「見て見てと句碑の並んで夏の庭」とか。句碑の『森』は言いすぎの感じがします。
月明かり微かに聞こえる祭りの音 粕谷 滋
字が違っています。字を間違うとせっかくよい句でも落とされるので注意しましょう。月明かり・・がいい。俳句らしい俳句だと思います。
真昼間の閑もる谷戸に風涼し 天野邦子
すんなりと読める素晴らしい句です。谷戸もいいし、閑もるもいい。
冷酒を呑んで忘れる今日の疲れ 重田弘美
これは難しいところです。時間があればあるいは直せるかもしれないが、推敲の余地が
ありながら、このままにしておきましょう、という句ですね。
台風とともに恩師が旅立ちぬ 渡辺里佳
恩師が亡くなったのか?想像の余地があり、台風とともに去るというのが洒落ています。
虚子の庭夏うぐいすの合唱団 重田弘美
とてもいい句です。俳句らしい俳句です。こういう句は沢山選ばれるのではないでしょうか。
窓枠に入道雲がのぞきけり 粕谷 滋
素直でいい感性だと思いますが、窓枠ではなくて、窓越しに、のほうがいいかもしれません。
湘南の光溢れてソーダ水 木下光代
きれいな句だと思います。おしゃれです。
夫々にゆかしき名あり花菖蒲 村上節子
これも俳句らしい俳句です。すばらしい。
陽がさせばかんぞうの朱(あけ)目にしみる 天野邦子
これもいいと思います。でも「あけ」ではなくて「しゅ」でいいと思います。
句会もどきに初めて参加しての感想(竹中)
最初に俳句のいろはを習い、その後著名な人たちの俳句を例に解説していただき、それから句会もどき、そして講評という順序で教えていただきました。有名な芭蕉の句『秋深き隣は何をする人ぞ』ですが、この句はどうして『秋』でなくてはならないのかを私は松崎先生に言われて初めて気がつきました。春でも夏でも冬でもいけない、秋でなくてはこの感じは出ない。確かに言われてみればその通りです。俳句はそういう感覚的なものを大事にする世界のようなのです。
面白かったのは『大根引き大根で道を教へけり』の一茶の句です。道を聞かれた人が畑の中で大根引きの真っ最中だった。で、指さす代わりに手に持った大根をさして道を教えたというもの。『叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな』これはお寺のお坊さんがお経を読み木魚を叩いたら蚊が出てきた、という意味の夏目漱石の句。どちらもクスっと笑えてとても洒落ていると思いました。
それから蕪村の句『春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな』ですが、私はこの終日(ひねもす)が読めませんでした。虚子の『明易(あけやす)や花鳥諷詠南無阿弥陀』のあけやすも読めなかったし、子規の句にあった『小夜時雨(さよしぐれ)』も一瞬考えてしまいました。小夜というのは夜の洒落た言葉なのだそうです。季語集をめくって調べているとまるで外国の言葉みたいに知らない単語が山と出てきました。自分が知らないことは世の中に数多くあるとは思っていましたが、日本人としてこれほど大きな古典の教養の世界が未知の分野として広がっていようとは思いもしないことで恥ずかしいやら驚くやら。
先生のお話で特に印象に残ったのは・・・
俳句は叙情があるように格調たかく詠む
意味を伝える
諷詠を吟じる
それを声に出して読む
聞き手に快感を与える(音のもつ響きを楽しんでもらえるように)
この5つでした。でも難しく考えずに、いつでもどこでもすっと作れるように心を素直にしておくのがよいのだそうです。ちなみに先生は毎日十句を目標に句帳に書きとめていらっしゃるとのこと。
講評に載せた以外にも面白い句がいろいろありましたが私が印象に残ったのは以下の三句でした。
『冷酒に冷奴とはぜいたくな』
『涼風が頬をなでつつビール飲む』
『冷奴 ビール枝豆 心太(ところてん)』
どれもビールがらみ、さては全部アンタが作ったんでしょうって?違いますよー。(笑)
そうそう、みんなの一番人気の句は
『妻の留守 冷蔵庫の中 どれがどれ』
でした。これからも1年に1回を目標に虚子立子記念館でスコン句会を開き、素人集団の思い切りのよさを遺憾なく発揮していきたいと思っています。ご興味のある方はどなたでもどうぞご参加ください。
Posted by 事務局 at [ セミナー報告 ]
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